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キャピタル・パートナーズ証券
三原淳雄はキャピタルパートナーズ証券の顧問を務めています。
 

2010年07月23日
三原 淳雄

夏の日の思い出
 

 「夏が来れば思い出す」で始まる「夏の思い出」の歌詞ではないが、日本にとって8月は国の運命が変わった思い出の多い月である。 
 昭和20年の8月15日は先の大戦で日本が敗れた日である。勝つと信じ込まされていただけに大変なショックだった。 
 
 昭和46年8月15日はニクソン ショック。時のアメリカ大統領がドルと金を切り離し為替が固定相場からフローと制へと大きく変わり、日本の株式市場は円高で日本の輸出産業が駄目になると大騒ぎをして大きく下げた日、ニクソン ショックと呼ばれるようになった。 
 
 たまたまその時チューリッヒのスイス銀行に出向していたので、絶好のチャンスとばかりに為替のディーリング ルームに顔を出した。もちろん大騒ぎになっていてディーラーたちの物凄い奮闘ぶりを目のあたりにすることが出来た。 
 まだコンピューターのない時代だから、一人が3つか4つの受話器を持ち、それぞれ違う言葉「ボンジュール」「ハロー」「プロント」を駆使して次々と商談を決めている。これにはたまげたしショックだった。 
 
 為替のディーラーは体力勝負であり、30代までしか勤まらないと言われていたが、あの調子で長時間働いていれば、燃焼してしまうのも当たり前あろう。しかも歩合給だから噂によればその当時で一億円クラスはぞろぞろ、あっと言う間に巨額のカネを握ってアーリー リタイアー、豪華船でカリブ海なんて話もざらにあったそうだ。 
 
 40年前でそうだから、その後IT化しカネと情報の世界では時差も国境もなくなり、おまけにロシア人や中国人など、ユダヤ人も真っ青というすばしっこい連中まで参加してきたのだから、その昔猛威を振るっていたスイスの「チューリッヒの小鬼たち」の影もめっきり薄くなり、東欧系アメリカ人のソロスなど小鬼どころか閻魔様みたいな怪物が出て来るようになった。 
 
 為替はファンダメンタルズで決まるなんてことを馬鹿のひとつ覚えみたいに唱えている国の通貨は、いまや恰好のターゲットとなった。国民の意気は萎えて戦意喪失しているのに、何故か通貨が買われるのは単に動かし易いからではないかと、最近だんだんそう思えてきた。 
 
 そういえば1980年代の新卒者たちの就職一番人気は日本の銀行、そしてディーラーとなって活躍すると夢を抱いていたはずなのに、あの大志を抱いていた青年たちはどこにいったのだろう。まさか爪に火をともして貯めたカネでショボショボFXにうつつを抜かしているのではないだろうな。 
 
 この夏は幸田真音さんの書いた「国債」でも読んでみてはいかがだろう。ちなみに幸田さんのペンネームはディーリングで買うことを「マイン」と言うが、その真音なのだそうだ。