三原淳雄の言いたい放題 mihara-atsuo.com
プロフィール
キャピタル・パートナーズ証券
三原淳雄はキャピタルパートナーズ証券の顧問を務めています。
 

2011年10月09日
三原 淳雄

三原先生へ
 

先生が亡くなられてから八ヶ月が過ぎ、季節は秋になりました。 
浄土真宗は亡くなられた全ての方が極楽浄土に行かれるとか、先生はいったい今どちらにいらっしゃるのですか、空の上から下界を眺めていらっしゃるのでしょうか。 
 
6月末で三原淳雄事務所を閉鎖しました。 
窓からは四季折々に心を和ませてくれた高橋是清公園が眺められ、都会とは思えない静かな環境の中100平米余りの贅沢な事務所。先生は今年の春の桜をご覧になれなかったのですね、そして私は秋の紅葉を見ないまま事務所を閉じました。 
 
前に前に突っ走る先生の後ろを一生懸命ついて走っていましたのに、いつものように先生は突然勝手にゴールしてしまわれたので、私も勝手に定年退職を迎えたことにしたのですが、亡くなられたという実感がないまま心の中はいつもザワザワと落ち着かない胸騒ぎのような毎日でした。 
 
この胸騒ぎは、先生亡き後に東日本大震災、福島原発事故と未曽有の災害に襲われた日本が、未だに復興の目処も、国の進む道もハッキリと決まっていない現状への先生の怒りと苛立ちが伝わってきているのだと思います。 
 
昔から先生は「瞬間湯沸かし器」と言われる位に短気で、面倒くさいことや、思い通りにならないことがあると「もう、止めや!」「もう 行かない」「それなら 要らない」と後先損得考えずに結論をだしては後悔するのが常でしたから、75歳まで頑張ると言っていらしたのに、あっと言う間に天国へ旅立たれたことをご自身が一番後悔していらっしゃるのではないですか。 
 
大丈夫です先生、今まで一緒に日本の行く末を考えてきたお仲間がいらっしゃるではありませんか。心を同じにする先輩、友人、後輩の皆様が先生の思いをきっとつないで下さる筈です。どうか空の上から日本復興に力を注ぐ皆様を応援して下さい。 
 
事務所閉鎖の案内の上に、私のお気に入りの先生の写真を載せていただきました。先生にお会いしたくなった時は、このホームページを開くか、お友達の皆さんのご助力でネットの中で活躍させていただいている先生を探して会いに行きますね。 
先生 長い間ありがとうございました。楽しいお勤めでした。 

三原と私のこと

三原が亡くなってから、多くの方に「三原さんとはどういうご縁でお仕事されたのですか」と聞かれました。また「三原さんのところで働いているから、英語が話せるのでしょう、経済のことも解っていらっしゃるのでしょう」と、勘違いされる方がいらっしゃいますが、それは全くの間違いです。 
 
私は女子大生亡国論そのものみたいな学生生活の後に、東京大学付属病院分院の麻酔科で週4日電話番のアルバイトしておりました。私にとってはアルバイトとは言え、社会にでて最初に人間として尊敬できる生き方をしている方達と出会えたことは、幸運なことでした。30歳を前にして、親の助けを借りずに自立することを考えなくてはと思っていた矢先に、イタリア語の通訳をしている友人から「主人が友達と会社を作るので、手伝ってくれない?」と頼まれ、私で良いのかなーと思いながら就職することに、そして彼女のご主人の友達が三原でした。 
 
1977年に日興証券時代の友人が社長、三原が専務で「国際部のない中小企業のための国際部として」と会社を立ち上げたのですが、もともと会社勤めができない、組織にいられないお二人が作った会社だけに2年もしないうちに意見の衝突がおき、三原一人が独立することになり退職しました。 
 
その時三原に「会社を創るから付いて来ないか」と誘われ、迷っていた私は友人に紹介された数霊術の田上先生に占っていただくことにしました。会社が終わってから暗い夜道を目黒の田上先生のお宅へ伺った日のことは今でもはっきり憶えています。 
 
田上先生は私と三原と社長の生年月日、名前の字画とでいろいろ計算され、おもむろに社長の名前を指さして 
 
田上先生 「この方の会社はあと2年で潰れます。あなたがこの会社にこのまま勤めていたとしても会社が潰れる1年前に結婚して辞めることになるでしょう。」 
 
次に三原の名前を指さして、 
 
田上先生  「この方はこれからが人生の始まりのようにどんどん上に向かって伸びて行く人です。う〜ん。でも、あなたがこの方について行ったら、利用されますよー。」 
 
私が利用されると言われても、その意味がわからず妙なことをいわれるなーと思ったのを覚えています。そして私が三原について行くと決まっているかのように田上先生は「会社を作るなら11画の名前にしなさい。」と言われました。 
 
翌日 私も会社を辞めて三原に付いて行く決心をしたこと、会社の名前は11画 
が良いと田上先生に言われたことを三原に伝えると、夕方には「それでは会社 
の名前はインパルスにしよう」と三原に言われました。 
確かに11画でした。 
 
IMPULSE ・・・・ 衝動、衝撃、推進力。でき心 
 
考えてみれば三原にピッタリの社名でした。 
 
不思議なことに、インパルスという名前に決まった時からいつも誰かに助けられ支えられている会社でした。 
 
まずは、三原の友人が使っていない会社をくださり、義理の弟さんが事務所を探せば買って貸して下さるということになり、そして私が初めて行った青山の不動産屋で、最初に案内された改装が済んだばかりという部屋に決め、即購入していただき、即入居。什器備品も事務所を閉じるという三原の友人からのプレゼントという具合にあっという間に三原が労せずして会社が設立できたのは、やっぱり運命に導かれていたのでしょうか。 
 
社名は株式会社インパルス、事務所名は三原淳雄事務所でスタートしましたが、それからも窮地に立つと、どこからともなく救世主が現れ良い方向に引っ張ってくれるという繰り返しの30年でした。三原自身も、多くの方に支えられてここまで来たことを常に感謝をしておりました。そして必ず「不思議やなー、俺の人柄かな?」と付け加えておりましたが。 

最後に

事務所の片付けをしながら、「やっぱり私は利用されたのかなー」と30年前の田上先生の言葉を思い出しましたが、三原が生き方を変えなかったように、私も自分を変えることなく勤めを終えることができたことは本当に幸福なことで三原について来て良かったなーとつくづく思いました。 
 
負けず嫌いで、人前にでること、中心になることが大好きな三原と、人と戦うこと、人前にでること、中心になることが苦手な私。正反対な性格ですし、本来なら接点のない、出会っていない筈の二人でしたが、やっぱり運命に導かれたのでしょうか。 
 
去年の暮、茅ヶ崎の病院に業務連絡に行った際「おまえ 何にもない俺に良く付いて来たなー」と三原に唐突に言われて、私は「だって他に行くとこなかったから」と何故かドギマギして照れながら答えたのですが、あれが三原流の私への感謝の言葉だったのか、さよならの言葉だったのか、今思うともうちょっと他に答え様があったような気がして後悔してます。 
 
馬鹿な私が何を聞いても「社員の恥は、俺の恥」と教えてくれ、ご自分が解らないことは調べてでも答えてくれた三原のチェックなしで、この文章をホームページに載せるのは不安ですが、勝手に事務所を閉じ退職した私の心の整理というか、ケジメとして載せさせていただくことにしました。 
 
いままで陰になり日向になり三原淳雄事務所を応援してくださった皆様、長い間お世話になりありがとうございました。 
このホームページの多くの読者の皆様ありがとうございました。 
 
三原淳雄事務所は閉鎖いたしましたが、11画の株式会社インパルスはご子息が継いでこのホームページを維持しております。 
三原淳雄の思いはこのホームページの中に生きていると思います。どうかこれからも会いに来ていただきたいと思います。 
 
南雲素子